藤井風「帰ろう」の楽曲とMVの相乗効果が凄い

どうも。

前回、藤井風さんについて異様に長いブログを書いて「これが最初で最後のブログかな…」などと思っていたはずなのに、「帰ろう」のMVがあまりにも素敵で凄くて、再びブログを書かざるを得ない状況となりました(笑)

また長々と書いていきますので、お時間のある方はラフな気持ちで読んでいただけたら幸いです。

 

はじめに

まず、大前提として「帰ろう」とは藤井風さんの楽曲です。

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こちらのジャケ写でお馴染み(?)、ファーストアルバム「HELP EVER HURT NEVER」に収録されています。

アルバムの発売自体は2020/5/20なのですが、この度、2020/9/4に「帰ろう」のMVが公開されました。

 

監督は児玉裕一さん。風さんがこれまでYouTubeでカバーしてきた楽曲たちのMVを監督してきた方。そんな方に、風さんが「この曲が日本語の歌詞で降りてきた時、この曲を出すまでは死ねん!この曲を出すためにもっと日本語の曲を用意せんと!って思いました」と言っていたこの曲を監督してもらうなんて胸熱展開すぎる。

なのでまずはそのMVをご覧いただきたいのです。今回のブログは徹頭徹尾このMVのことを書いていきます。

まず、アルバム発売から約3ヶ月半経ったタイミングでMV公開という流れがすごく良い…

アルバムを聴いている人たちの中でそれぞれの「帰ろう」の解釈が出来上がった状態で、解釈がより広がるようなこのMVが公開されてすごく幸せです。

視覚情報って強いから、やはりMVがあるとそちらに引っ張られる側面もあるような気がするんだけど、最初に聴覚情報だけで「帰ろう」について考えることができて、その後に新たな情報を得られるのは新たな楽しみ方をできるということでもあるので。

あと、純粋にMVが作られると必然的にこの曲の知名度が上がるし、ラジオでかかる回数も圧倒的に増える。ラジオから「帰ろう」が流れてきたらそりゃあファンも増えることでしょう。ありがとうございます。

 

タイトルでも触れたとおり、「帰ろう」のMVは楽曲(聴覚)とMV(視覚)の相乗効果が凄いのです。

なので、今回は映像の個人的解釈も含め、その辺について長々と書いていこうかと。

尚、引用部分は全て「帰ろう」の歌詞です。

 

1番

まず冒頭、道路の矢印から始まる訳ですが、この矢印が始まる場所は「生」と「死」を繋ぐ世界の始まりだと思っています。三途の川の始まり的な。

MVの冒頭、彼らはまだ矢印が始まる前の場所にいる。その一方でMVの視点は矢印が既に始まっている場所から彼らを見てる。

このMVに出てくる「彼ら」は、年齢も、おそらく国籍も、多種多様な人々。赤い風船を持った幼い男の子、高校生の女の子、ガラの悪そうなおじちゃん、松葉杖をついた怪我人、旅行者、手を繋いだカップル、スマホでずっと電話してるビジネスマン、老夫婦、その他にも様々。

彼らは最初、ソファーに集い、みんなでソファーを押しているのに、歩みを進めるとともにソファーから離れていく。

このMVの中でソファーが指すのは「人生そのもの」だと私は解釈しました。

つまり、ソファーを離れるということは人生を終えるということ。

彼らはあの瞬間人生を終えて、矢印(三途の川)に差し掛かろうとしている。

まだソファーに沢山の荷物を載せたままで。

 

それじゃ それじゃ またね

少年の瞳は汚れ

5時の鐘は鳴り響けど もう聞こえない

この曲、ストリングスがすごく良いんです。

ここからストリングスがビートを刻み始める。それとともに風さんがソファーを押しながら走り始める。

そして、5時を指す時計はストリングスのビートと同じ速さで秒針を刻む。

つまり、視覚と聴覚がマッチしている。

この秒針の動きがとても好きです。

 

それじゃ それじゃ まるで

全部 終わったみたいだね

ここもめちゃくちゃ好き…

ソファーを押しながら走る風さんの足を見てください。この足の刻み方までストリングスのビートと同じ速さなんですよ…

もうね、ストリングスのビートも秒針も風さんが走っている足の動きも全てが同じBPMなので観ていて心地が良すぎる。

 

そこからのサビです。

ああ 全て忘れて帰ろう

ああ 全て流して帰ろう

ソファーを押しながら走っていた風さんがここでソファーに飛び乗るこの開放感・解放感。

サビ前まで忙しなくビートを刻んでいたストリングスも、サビに入るとともに壮大で解き放たれたような音色に変わる。視覚と聴覚がマッチしすぎている。

 

あの傷は疼けど この渇き癒えねど

もうどうでもいいの  吹き飛ばそう

ここで彼らはソファーを押し出すように離していく。冒頭では風さんがソファーを押していて、彼らは何の力も加えずにただソファーから離れていくだけだった。だけど、サビでは風さんがソファーの上に横たわっていて、彼らはそのソファーを自分たちの力を加えて押し出していく。自らの意思で手放すように。

 

そして、誰かの手と手が引き離されていく。このMVでは「手と手」がすごく印象的に出てくる。

カップルは最初から手を繋いでいて、とある男女は序盤で手を取り合い、幼い男の子と高校生の女の子も手を取る。

 

さわやかな風と帰ろう

やさしく降る雨と帰ろう

ここでカメラが風目線(この"風"は自然現象の方の"風")になって、風さん(この"風"は藤井風の方の"風")の上を吹き抜けていくのが好き。「さわやかな風」になれた気分。

吹き抜けた風は壮大な大地まで行って、豊かな緑にやさしい雨を降らせる。

 

憎みあいの果てに何が生まれるの

わたし、わたしが先に 忘れよう

ここで横たわっていた風さんが起き上がって、進行方向を向く。この進行方向はおそらく「死」の方面ですよね…

そして、5時を指していた時計がまた出てくるんだけど、ここではサビのリズムに合わせて秒針が進むからさっきのビートを刻んでいた忙しない秒針よりもすごくゆっくり進む。

 

2番

1番が終わったところで、彼らが矢印の先に進んだことが示される。

1番では彼らは矢印がまだ始まっていない場所にいて、MVを観る私は矢印が既に始まってる場所からそれを観てた。その立ち位置が2番では逆転する。

矢印(三途の川の始まり)を踏み越えた彼ら。

ここで矢印を踏み越える瞬間、ソファーに載っていた沢山の荷物が道路に散らばっていく。ここからは持っていた沢山の荷物を手放していく時間。

そして、荷物が道路に散らばるこの瞬間、ここまでストリングスとピアノとパーカッションで進んできた楽曲に、ベースとドラムが加わる訳です。楽曲の構成が大きく変わる転換点で、映像でもそれまで抱えていた荷物が落ちて、視点も変わるという大きな転換点が現れる。

荷物が落ちると同時に初めてベースが鳴り出す瞬間がとても気持ち良いです。

本当に視覚と聴覚がマッチしすぎている(n回目)。

更にここで現れる「帰ろう」というタイトル。1番が終わってからタイトルが出てくるんですよ…つまり、あの矢印を踏み越えたところから本当の意味での「帰ること」が始まるという訳ですか…?

この一連の流れ、本当に気持ちが良いので注目して観てほしいです…

あと、1番では和音でピアノを弾いているのに、2番では単音で弾いているのもとても好き…

 

あなたは弱音を吐いて

わたしは未練こぼして

最後くらい 神様でいさせて

だって これじゃ人間だ

ここで、それまで彼らや風さん自身が押していたソファーを繋いで引率する車が現れる。

なぜ矢印を越えたところでこの車が現れたのか。

私は、「ソファー=人生そのもの」、「風さん=生の概念」、「車・車に乗っているおじいさん=案内人」なのかなと思いました。

矢印を越える前までは自分たちの力でソファーを押し進めたり、そこに飛び乗って流れを身を任せたりしていたけれども、矢印を越えて着実に死へ向かう中であの車が進むべき世界へ連れていく。

 

わたしのいない世界を

上から眺めていても

何一つ 変わらず回るから

少し背中が軽くなった

「わたしのいない世界」を想像して肩の荷が降りた時、ソファーを引っ張ってきた車は止まり、案内を終える。

ソファーも、ソファーに座る風さんも、ソファーと並んで歩いていた彼らも、それに合わせるように歩みを止める。

 

それじゃ それじゃ またね

国道沿い前で別れ

続く町の喧騒 後目に一人行く

案内人のおじいさんは役目を終え、「それじゃ」と一人で行き、風さんも「それじゃ」とおじいさんに別れを告げる。

おじいさんの車が岡山ナンバーなのがなんとも粋です(風さんの出身地は岡山)。

 

私はMVが公開される前にこの楽曲を聴いていた時、「国道=三途の川」、「町の喧騒=人々が生きてるこの世界」のメタファーなんじゃないかと思ったんですよね。

だから、この歌詞は家族や友人みんながいるこの世界を後目に、一人で三途の川に入っていく様子を想像してた。

 

そして、MVではおじいさんが案内を終えたこの場所こそが三途の川の終着点なんじゃないかと感じたんです。

ここが、生と死の繋ぎ目。ここから先は死後の世界。

だから、「生の概念」である風さんはここから先には進めない。

 

ください ください ばっかで

何も あげられなかったね

生きてきた 意味なんか 分からないまま

ずっと赤い風船を持っていた男の子は、車を見送った後、まるで何かに気付いたかのように風船を手放す。

みんなが空をのぼっていく風船を眺め、それと同時にここまで手を取り合って歩いてきた男女が手を離す。

これまで速く進んだり、ゆっくり進んだりしていた5時を示す秒針は、ここで巻き戻る。今度はドラムのリズムに合わせて。

そしてどんどんと空にのぼっていく沢山の赤い風船。圧巻の景色です。

 

ああ 全て与えて帰ろう

ああ 何も持たずに帰ろう

与えられるものこそ 与えられたもの

ありがとう、って胸をはろう

風船を手放した幼い男の子が、沢山の赤い風船がのぼっていく中で先陣切って一人だけ歩いていくのがすごく印象的。

ここではやはり「赤い風船」が何を表すのか、ということが大事な鍵になってくるんですよね。

私は二つの説を考えました。

一つは、この赤い風船こそが「誰かに与えられたもの」もしくは「誰かに与えたもの」の象徴だということ。だからこそ空に浮かぶ沢山の風船を見て、それが走馬灯のように彼らの人生の中での沢山の思い出を思い浮かばせたのかな?と思ったんです。

二つ目は、あの赤い風船は「執着」の象徴のようなものなんじゃないかと。執着は、自分の手元に持っているときは苦しいのに、手放したら思い出などという、綺麗なものにも変わりうる。

今回は、「執着」説を取ることにしました。

執着って色んな執着があるけど、あの瞬間男の子が手放したのは「生」への執着なんじゃないかって。一番幼いからこそ最初に生への執着を手放すことができて、生への執着を手放したからこそその先にある世界へ一人で歩き出したのかな。

では、何故あの男の子だけが赤い風船を持っていたのか。

それは、あの子が唯一手に持てるだけの数の執着を持っていたから。つまりは一番執着を持っていなかったから。

生きている年数が長くなればなるほど、人は持ちきれないほどの執着を抱えていく。だから、あの子が赤い風船を手放した後に空を飛んでいった沢山の風船は、きっとあそこにいた彼らが抱え込んでいた沢山の執着や未練なんだと思う。自分の心の中に抱え込んでいた沢山の風船が解き放たれて飛び立つ様子を見て初めて、彼ら自身もまた解放されたような清々しい表情を浮かべていく。

 

待ってるからさ、もう帰ろう

幸せ絶えぬ場所、帰ろう

去り際の時に 何が持っていけるの

一つ一つ 荷物 手放そう

そして、それぞれが最後まで抱え続けていた荷物を手放して、"何も持たずに"帰っていく。

ガラの悪そうなおじちゃんはサングラスを外し、ずっとスマホで電話をしていたビジネスマンはスマホをおろす。ずっと手を繋いで歩いてきたカップルはお互いの手を離して別々に歩んでいき、旅行者らしき女性はバックパックをおろす。松葉杖をついていたはずの怪我人も松葉杖を手放して歩き出す。

 

憎み合いの果てに何が生まれるの

わたし、わたしが先に 忘れよう

 

あぁ今日からどう生きてこう

風さんは「生の概念」だからこの先へは進めないし、風さんから離れるということは、「生」から離れるということ。

この先に待つのはおそらく死後の世界なんだよね。

みんなが自分から離れてその先(死)へ進んでいく様子を見届けた風さんは、笑顔で手を広げ、消える。その姿は沢山の羽根に変わる。もしかしたら彼は天使だったのかもしれないな。

この手を広げるときのハンドサイン、おそらく意味があると思うんだけど、私の教養レベルではとても読み取れなかった…「仏教の印相なんじゃないか」とか、「瞑想のハンドサインなんじゃないか」とか、色々お見かけして調べてみて、「来迎印かな」とか考えたりもしたけど、付け焼き刃にも満たない私の知識では全然確証が得られない…教養が足りない…(泣)

 

そして2番のサビになって突如現れる社交ダンスを踊る男女。最初は全然分からなかったんだけど、観ているうちにあの印象的な色が鍵になるんじゃないかと思い始めた。

女性は赤、男性は黒を身に纏っている。赤といえば先程の「赤い風船」。つまり、「赤=執着」。そして、黒は喪服の黒。つまり、「黒=死」。ちなみに、「生の概念」である風さんは白を身に纏っていたということを考えると、社交ダンスの男女もまた概念の擬人化なのかもしれない。

赤い風船が空に飛び立つことで歩いていた彼らは生きることの執着から解放されて、死に向かっていく。執着が生から離れたタイミングで、今度は赤い女性(執着)と黒い男性(死)が結びつく。

だけど、この男女も最後の最後にはまた離れていくんだよね。

そして、その次に何が映るのかというと、風さんが幼い子どもに風船らしきものを手渡すところなんです。顔は映ってないけど、あの手はおそらく風さん。

いや…素晴らしすぎないですか…???

つまり、それは死の後の新たな生命の始まり。「生の概念」である風さんが、新しい生命に繋げていく。執着が生から離れ、死と出会い、また死と別れ、次の誰かの生として生まれ変わる。という解釈をしてもよろしいか…?

だって、赤い風船を手放すことで死に向かっていく様子を表現した後に、赤い風船(執着)を手渡す描写があるということは、それはもう新たな生命の誕生を意味するじゃん…

 

ちなみに、何故執着が生まれ変わりを意味すると私が解釈しているのかというと、「もうええわ」の解説動画に行き着く訳ですが。

風さんはこの中で、「1番の終わりに隠しメッセージがある」と言っていて、そのメッセージとは「人は身体への執着を手放した時に初めて生死のサイクルから解放される」というもの。めちゃくちゃスピリチュアル。

つまり目指すものは「輪廻転生からの解脱」だということですよね…?

だから、執着を手渡すということは、生死のサイクルから抜け出せなかった、つまり輪廻転生を意味するのではないかと。

ただ、この辺も私の教養が全然足りていないのでちゃんと読み取れているか全く分からないのですよね…無知の状態で深く言及はできないな…

 

このシーンでは、優しく幼子の手を包み込むように手渡す訳ですが、これは1番のサビでの手と手が引き裂かれるかのような描写と対比になってるのかなと思ったり。

このMVでは「手の描写」がすごく大切に描かれている気がする。手を繋いだり、取り合ったり、手放したり。まるで「手と手の繋がり」で「命の繋がり」を表現しているかのよう。

 

そして、風船を手渡した後に何が映るのかというと、羽根が舞う中での空のソファーですよ。何も積んでいないソファー。

これは、人生の終わり(全て与え終えた状態)とも言えるし、人生の始まり(まだ何も持っていない状態)とも言える。

これもまた、輪廻転生を感じさせる描写なんですよね…

更に言うならば、空のソファーが映った瞬間、「帰ろう」のタイトルが再度現れるんです。つまり、「帰ろう」という文字が表示されている間は人生の終わりを表してる。そしてこの時は無音。

だけどこの後、無音状態から喧騒のような音が戻ってくるんです。ザワザワした音。

私が「帰ろう」を聴いた時に感じたように、もし「町の喧騒」が「人々が生きているこの世界」のメタファーなのだとしたら、この喧騒が意味するのは、「生」。

つまり、「帰ろう」の文字が消えてザワザワした音が現れてからは人生の始まり(生)を表してる。

 

このMVの何が凄いかって、ラストの歌詞、

あぁ今日からどう生きてこう

を映像の力で表現してるところじゃないですか?

楽曲を聴いた後も、MVを観た後も、散々「死」について考えさせられてから最後の最後に「生」に引き戻されるので、「あぁ、私まだ生きてるんだった。今日からどう生きてこう。」っていう気持ちになるの、本当に凄い。

視覚と聴覚がマッチしすぎている(n回目)。

 

そして、ラストのラスト、最後に映るのはあの高校生の女の子が一人だけ立っている姿。

なぜ一人だけ残っているのか。

思い返せば、彼らが皆荷物を手放し、解放されたような表情をして「死」へと向かっていったけど、彼女にはどちらの描写もなかった。

つまり、彼女はあの時立ち止まり、「死」へと向かわなかったことでまだ生きている存在なのか。それともまだ「生と死」の境を彷徨っているのか。それとも死後も執着や未練を捨てきれずにいるのか。

もし彼女が自分の中の赤い風船(執着)を手放せなかったのだとしたら、最後に新たな命に手渡された赤い風船は彼女の執着だったのかもしれない。

あの瞬間輪廻転生したのは彼女の魂だったのかな?

 

最後に

風さんは、「帰ろう」のMVについても解説動画を公開しています。

生きることはもがくことなんだなぁ。素敵です。

これまでの解説動画の中で、「帰ろう」は最も多くを語っていない解説動画だと思う。

その答えは、YouTubeの公式チャンネルのコミュニティにありました。彼はコミュニティに「語り尽くせないのと同時に、何も語らなくていい、そんな作品ですが、なにか皆さんのお役に立てたら」と書いています。この投稿を見た時、「本当にそうだな」と思いました。私はどうしたって「解釈や意図に正解があるのなら正解を知りたい」と思ってしまうけど、このMVは多くを語られない方が人それぞれに沢山の解釈が生まれ、広がるなぁと。

このMVは、観る人によっても解釈が変わるし、同じ人が観てもタイミングや環境が変われば見え方も変わるものだと思う。

この作品と共に人生を歩んでいきたいと思わせてくれる楽曲であり、MVです。


こんなに素晴らしい楽曲の世界観を表現できるMVを作ってしまう児玉監督は本当に凄い。

そしてそれは「帰ろう」という楽曲に魅力があるからこそ生まれたもの。

だから、こんなに素晴らしいMVを生み出す原動力となった楽曲も本当に凄い。

楽曲の素晴らしさに感動するとき、MVの素晴らしさに気付く。

MVの素晴らしさに感動するとき、楽曲の素晴らしさに気付く。

楽曲とMVの相乗効果にただただ感服することしかできません。

何度でも観たくなる、まさにスルメMVです。

 

「幸せに死ぬためにはどう生きたらええの?」

風さんが「帰ろう」について語る時、何度も口にしてきた言葉です。この言葉について改めて考えてみた時、死に様がその人の生き様を決めるのではなく、生き様がその人の死に様を決めるのかもしれないと気付けました。

最期に ありがとう、って胸をはれるように 生きていきたいな。

 

ここまで読んでくださった方の中で「帰ろう」のMVを今すぐ観たくなった方もいらっしゃるかもしれないので、最後に再度MVのリンクを貼っておきます!!何回でも観ましょう!!

 

そして、「帰ろう」が収録された藤井風さんのファーストアルバム「HELP EVER HURT NEVER」は公式HPのこちらから購入できます。まだの方はぜひどうぞ(ダイマ)。

 

またまた長文ブログを書いてしまいましたが、ここまで読んでくださった方がもしいらっしゃるならば、本当にありがとうございました。